第5回 連続線上の受身-自他動詞-使役:日本語を教えると日本語が分かる

今回は、「受身文」と「使役文」を考えてみたいと思う。英仏語とのアナロジーで学生にこれらを説明すると危険なことがあるので、教師側は気をつける必要がある。

旧サイト:金谷武洋の『日本語に主語はいらない』第5回「連続線としての受身/自・他動詞/使役」(1996年9月執筆、2005年9月3日公開)から移動

能動文と受身文

能動文と受身文の違いは視点の違い(のみ)と考えられることが多い

まず受身の例から見ることにしよう。

次の文(1)は能動文であり、受身文である(2)に対応している。
(1)-j 「熊が太郎を殺した」 (1)-e A bear killed Taro.
(2)-j 「太郎が熊に殺された」 (2)-e Taro was killed by a bear.

この例からだけは、日本文と英文の受身文の根本的な違いはなかなか見えてこない。むしろ「基本的なのは能動文であり、その構文上の変形規則によって受身文が作られる。両者の意味は基本的に変わらず(主語が行為者か被行為者かの)視点の違いだけである。

この二点は日英語とも共通している」と思っている人は、これらの例からますますその印象を強くするのではないだろうか。

日本語の受身文は「ある行為が人間のコントロールの外で行われた」という広範な意味を含む

しかし、「日本語と英語で能動文と受身文の意味は基本的に変わらない」という考えは正しくない。何より(2)の二つの受身文のニュアンスがかなり違う。

それは、日本語における受身がそれを取り巻く、より広範な表現の一部であるのに、英語の方は受身の意味に限られることが大きく原因している。

こう言うと、日本語の受身の形である-(r)areruには、他に「尊敬(先生がその事を話された)・可能(その野菜は生のまま食べられる)・自発(亡くなった父のことが思い出される)」の3つの用法があると国語の時間に習ったことを思い出して頂けるだろう。

勿論、そこには共通の意味があって、それが「ある行為が人間のコントロールを越えたところでなされる」であることは比較的よく知られている。

つまり、上の(2)-j「太郎が熊に殺された」は単に(1)-jの視点を変えたものではなく「熊が太郎を殺した」という事実の他に「その状況下で太郎は無力だった」の意味が加わっているのである。

英語の受身文は、能動文と情報量が変わらない

一方、英文の受身文は、能動文と同じ事実を単に視点を変えて言ったという性格が強い。

そもそも英語の受身文は意味範囲がとても狭い。同じ印欧語のフランス語でさえ、受身構文である「BE動詞(=ETRE)+過去分詞」は決して受身の独占ではない。使われる動詞によっては他に「完了」の意味もある。例えば「彼は死んだ」はこの構文で言われて「Il est mort」となるが、これに当る英文は「He has died「であり、「He is died」は言うまでもなく非文である。

既に指摘されている多少の例外を除けば(数量を伴う文など)、英語においては受身文は能動文の単なる裏返しであることが多い。つまり、受身文には大抵それに対応する能動文(上の2-eに対する1-e)がある。また、能動文の目的語が受身文では主語となるのだから(ここではTaro)元の能動文は他動詞文でなくてはならない。

日本語では「ある状況における制御不可能」こそが、受身・可能・尊敬・自発の本質

これに対して、日本語では「ある状況における制御不可能」こそ受身・可能・尊敬・自発に共通の意味なのだから、能動文が他動詞文である制約は不要である。自動詞能動文とそれに対応する受身文の例を挙げよう。

(3)-j 「朝早く次郎が来た」    (3)-e Jiro came early in the morning.
(4)-j 「朝早く次郎に来られた」   (4)-e ??????

ここで注目すべきなのは(4)-jにおける話者の気持ちである。つまり「次郎に朝早く来られて困った」という被害者の立場に自分をおいた表現であり、この点、単に事実を言っている(3)-j よりも情報量が多く、文として豊かである。

また、時にはこの制御不可能な状況を逆に楽しむといった場合もある。「ちょっと風に吹かれてこよう」などはそんな例で、この場合は「迷惑」とは言いにくいが、日本人の心理には(長いものに巻かれて)「参った、参った」と言いながら実はその状況を余裕をもって味わう趣向もあるのである。

いずれにしても、日本語の受身文は能動文と「視点は変わるが意味は同じ」とはとても言えないのは明らかだろう。以下、日英語の受身に関する違いをどう日本語教育に反映させるか、考えてみたい。

受身に関する違いを、日本語教育でどう反映させるか

ジャンが私の足を踏みました→それがどうした?

よく学生が作る文に「ジャンが私の足を踏みました」というタイプの文がある。これは文法的には正しいものの、事実を述べているだけなので、つい意地悪く「へぇ、それがどうしたの」と言ってやりたくなる。ところが、「受身文にしなさい」と言うと、今度は「私の足がジャンに踏まれました」と変えるのである。これは英語の受身文の「変形規則」を日本語に当てはめた結果であるが、文としてはさらに悪くなっている。ではどう直したらいいのだろうか。

足をジャンに踏まれました→踏まれて困ったんだね

この文は「(私は)足をジャンに踏まれました」とするとずっと自然になる。つまり、日本語では踏まれて困るのは「足」ではなく「私」であるからで、「足」と「私」を切り離した方がいい。さらに言えば「私」はわかりきった言葉なので無い方がいい。こんな例も、日本語の受身文は英語のそれとはかなり性格を異にしていることを学生に理解させるのに重要であろう。この際に正しい文を作らせる鍵は「誰が困っていますか」である。

ジャンに足を踏んでもらった→踏まれて喜んでいるんだね

さらに、折角「話者が困っている状況」の話をするのだから、受身の発展として「話者が喜んでいる状況」に繋げてはどうだろうか。「ジャンが足を踏んだ」事実は変わらないが、今度は「その状況で私は喜んでいる」ことをどう言えばいいのか。例えば疲れた足を按摩代わりにジャンがわざわざ踏んでいる様な状態である。そこは対人関係に特に重きをおく日本文化である。こういったニュアンスもちゃんと表現出来るノウハウを日本語はちゃんと備えているのである。

この場合は「ジャンに足を踏んでもらった」(あるいは視点を変えて「ジャンが足を踏んでくれた」)と「やりもらい表現」を使えばいい。この、日本人ならすんなり口をついて出てくる表現がカナダの学生にはなかなか自然には出て来ず、意識的に学習しなければいけない点は、上の「迷惑の受身」によく似ている。導入の順番としては「話者の気持ち」という項目で「受身」と「やりもらい」を続けて教えた方が学習効果が上がると思う。

英語は「盗まれて困った」場合でも他動詞(コントロールする動詞)

盗まれても「get」

受身文に話を戻そう。昨年四月(1995年4月)の研修会でこの発表をした時、英語にも「話者の無力さ」を表現する構文があるのではという質問を受けた。その方は次の(5)-eの様な文を挙げられた。
(5)-j「財布を盗まれた」 (5)-e I got my purse stolen.

なるほど(5)-eは一見(5)-jのニュアンスをそのまま持っているという印象を受ける。しかし、私にはこの二文には「その基本的な発想において」根本的な差がやはりあると思われるのだ。

その理由はここで助動詞的に使われている「get」の基本的な性格である。日本語の受身の助動詞は動詞の語幹に-(r)aru(動詞「ある」)の付いたものである。この「る・らる」が現代日本語では「らる・られる」に変わった。この「ある」は文字通り『人間のコントロールを越えて、そこに自然現象として「ある」』ことから来ていることは言うまでもない。一方、英語の「get」のはそういった自動詞的な意味はなく、むしろ他動詞の最たるもの「得る・手に入れる」である。

その証拠に、この同じ「get」が、全く同じ構文で、受身とは正反対の「使役」でも使われるのである。またこの状況はやはり他動詞の「have」にも「使役」と並んで「受身」があることも理解を助ける。

(6)-j 「お食事を持って来させましょう」 (6)-e I’ll get your dinner sent in.
(7)-e I had my hair cut.(使役)    (8)-e I had my hat blown off.(受身)

「get」を使った受身文があるのは、使役が受身の基礎だから

これでお分かりであろう。英語の「get」を使った受身文は実は使役が発想の基礎になっているのである。

使役を使って受身的な表現に代行させる方法は実は日本語にもあって「親に死なれた」の意味で「親を死なせた」と言うことがある。この場合の「死なせる」は当然文字通りに「殺す」ことではない。「親が死ぬことにおいて何も出来なかった」というのが受身であるが、それから発して「だから私が殺したのも同然だ」という解釈に至ると使役に転ずる訳である。いずれ「親が死んだ」という事実には変わりはなく、ここでの問題はその事実に対する話者による解釈の違いである。

いま、(5)-j「財布を盗まれた」と(5)-e I got my purse stolen.の解釈を再度比べるなら、前者においては「私は無力だった」と言いたいのに対して、後者はそれと正反対の「私に責任がある」という発想がその基本に横たわっているのである。

受身と使役は連続線上の両端にある

受身・使役・自動詞・他動詞の四文法項目は「総合的なシステム」

受身の話から使役が出てきたので、そろそろ今回の本題である「受身と使役は連続線の両端である」という話題に移ることにしたい。これが日本文法を効果的に教える際の一つのポイントと思われるのは、学生にとってやっかいな「自動詞・他動詞」もその連続線に乗るからである。つまり、受身・使役・自動詞・他動詞という極めて重要な四文法項目が「総合的なシステムとして」学生に説明出来るメリットがあることを強調したい。

日本語でも使役は受身の基礎

私がこの「連続線」に気付いたのは、英語や仏語の使役/受身表現が「動詞がリサイクル(再利用)された助動詞」を使っている状況を見て、「日本語ではどうだろう」と考えてみたのがきっかけである。言うまでもなく英語では本動詞である「be,get,have,make,let」などを助動詞として使役/受身表現に再利用しているのだが、これは仏独西などの印欧語でも全く同様である。日本語の状況はどうだろうか。

果たして、日本語でもその事情はほとんど同じであることがすぐ分かった。ただし、それが一見見えにくくなってはいる。それは、英語などと違って動詞が語幹に溶け込んで一体となっているからである。以下に例を挙げよう。

日本語の自動詞は「語幹+ARU」

自動詞には「分かる・始まる・止まる・すわる」など、-ARUで終わっているものが多い。これは明らかに動詞の古い語幹に別の動詞「ある」が付いたものである。例えば最初の「分かる」を例にとれば、古語の「わく(分く)」は「分ける」意味であり、これに「ある」が付いて「(人間のコントロールを超えて自然に)分けられる(様になる)」というのが今日の「理解出来る」という意味の「分かる」となったものである。

「分かる」は自動詞、「understand」は他動詞

「ドイツ語が分からない」というのは、取りもなおさず「自分にとって意味のある部分に分かれることなく、一固まりの無意味な音の流れとして聞こえる」ということである。

この意味でこそ「分かる」が「understand」とはまるで発想が違うことが理解出来るので、「understand」が他動詞で直接目的語を取るのに対して「分かる」は理解の対象となるものを直接目的補語(Nを)でなく主格補語(Nが)で表わす自動詞なのもその証拠である。(因みに中国語の「理解」は二つとも「分ける」意味の漢字であることに注目したい)

また、こうしてみると自動詞文の「ドイツ語が分かる」と受身文の「太郎が殺される(古語では「殺さる」)」は、実は底で繋がっていることが明らかであろう。「分かる」も「殺さる」も共に「動詞の語幹+ある」であるし、意味も「人間のコントロールを越えた出来事」なのであるから。ただ、起源的には同じでも、自動詞には受身のニュアンスが次第に薄れてしまったということである。

「語幹+す」は他動詞

一方、形の上で使役と他動詞も良く似ている。ここでは動詞「する」(古形は「す」)を語幹に組み入れて再利用(リサイクル)した様子が見てとれる。「起こす・倒す・沸かす・殺す」などの他動詞は明らかに「語幹+す」である。というよりは「す」で終わる動詞は他動詞と教えた方が早いであろうか。(ただしその逆は真ではなく、全ての他動詞は「す」で終わらない。「開ける・切る・割る」など)

「受身・自動詞・他動詞・使役」を線上に並べる

これをまとめて連続線にしてみよう。多くの自動詞、他動詞が次の様な連続線上にあると言える。
「受身・自動詞・他動詞・使役」そして「(R)ARERU・(R)ARU・SU・(S)ASERU」がそれぞれの形である。時代を遡ればそれらは「(R)ARU・SU・(S)ASU」に収束するから、「ある」と「す」の姿が一層くっきりと浮かび上がる。

さらに付け加えると、上の連続線の自動詞と他動詞の間には再利用された「ある」も「す(る)」も持たない、いわゆるゼロマーク(無標)の動詞群がある。それは「開く・割れる」などの様に自動詞のことも「開ける・割る」などの様に他動詞のこともあるが、その事情も「再利用された動詞を持たないための混同」と説明すると学生が納得しやすいだろう。

まとめ

この様に、連続線には「(R)ARERU・(R)ARU・ゼロ・SU・(S)ASERU」と全部で5つの要素が並んだ。

ゼロマーク(無標)の動詞を真ん中に左側には「人間のコントロールの効かない自然の勢いと状態」を動詞「ある」の再利用形で示した自動詞と受身(プラス自発・尊敬・可能)がある。

右側というと、こちらは「人間の人為的意図的な行為」を表わす他動詞と使役が動詞「する」を再利用した形態素で示していることになる。

再利用であるから「ある」「する」という元の形ではもはや現われないが、「ご飯つぶの様に語に語がどんどんくっついて行く」とある学生がいみじくも云った日本語では、むしろこの種の変形は自然なことである。

(1996年9月)

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