第1回 「三階でございま~す」:敬意を示す声の高さ

日本に行って帰ってきた学生が「あー驚いた」と一様に言うのが、デパートの女性店員などの声の高さである。例えば「いらっしゃいませー」とエスカレーターの隣で客に頭を下げる店員の声(学生:えっ、これが彼女の仕事なの?)。「三階でございま~す」と教えてくれるエレベーター嬢の声(学生:表示を見れば言われなくても分かるけど)。

自然には聞こえない高い声

「何であんな高い声を出すんだろう」「とても自然に聞こえないなあ」「すごく子供っぽいよね」などと、概して悪い印象を毎年聞くのである。カナダの学生は「自然体」を好むのだ。もっとも寸劇などでちゃっかり真似して使うこともある。

私自身の遠い思い出だが、母に「どうして電話に出る時はそんな声になるの?」と聞いたことがある。「はい。金谷でございます」の第一声から普通話す時の高さでなく、とにかく「尋常でない」のだ。いつも通りに話せばいいのに、という気はしたものの「きっとよそ行きの声なんだ」と子供心に思ったものである。

敬意を示す声の高さ

日本人は無意識のうちに声の高さを調節する

今にして思えば、これが聞き手への敬意を示す声の高さ(ピッチ)なのだった。日本語を教える際の「仕上げ」に大抵の教科書が敬語表現を選んでいるが、学生に教えない「声の高さ」だって日本人は無意識の内に調節しているのである。

敬意と恐怖は近いのかもしれない

特に女性に顕著だが、男性社員だって上司に急に呼び出されて叱咤あるいは詰問された場合には「声が上ずる」。「そ、その件に関しましては…」などと話す時は、後輩の社員に向かって「おい、今夜あたり、一杯どうだ」と言う時とは違う筈だ。この男性社員の状況からも明らかなように、高い声はその基本に「恐怖」があると思われる。話し手の心理として「敬意」と「恐怖」はとても近いのだろう。以下、その様子を日本語の語彙や表記から明らかにしてみたいと思う。

恐れを基礎にした敬意表現

筆者の住むモントリオールの日系文化会館から借りたビデオでNHK大河ドラマなどを見ていると、目下の者が目上に対して「恐悦至極に存じあげます」「恐れ多くも上様は」「恐れながら申し上げます」「恐れ入った次第」などと盛んに恐れ、畏まっている。ここの和語「おそれる」だが、その漢字表記「恐れる・畏れる・怖れる・虞れる」の豊かなバラエティを見れば明らかな様に、これらは全て「恐れ」を基礎にした敬意表現なのである。

恐れつつ悦ぶ!

「恐れる・怖れる」の2字の組合せで「恐怖」となる。一方「畏れる」という漢字を選べば、それは「畏敬」のニュアンスを全面に押し出して敬意に近付く。また「恐悦」とは「恐れつつ悦ぶ」と書くのだから、かなりマゾヒスティックな心境と言うべきか。前述のエレベーター嬢の「不自然な」高音も、少なくとも発生的には「私が怖い皆さんだが、来て戴いて嬉しい」という気持ちの表れと言っていいだろう。

現在も日本語に残る恐怖と敬意の同源性

「恐る恐る」聞き、「おそらく」と想像し、「恐縮」する

こうした「恐怖」と「敬意」の同源性は既に意識されなくなったが、それでも語彙としては今日でもそのまま使用されている。「恐る恐る」聞いてみたり、「恐らく」と想像したり、何か恩を受けて「恐縮」したりするのも、元来は同様の「不安・危惧」表現の名残りである。

「畏(おそ)れる」「畏(かしこ)む」

一方、「畏れる」の漢字には「畏(かしこ)む」という別の訓読み(つまり漢字の和訳)もあって、こちらにもまた敬意表現が豊富に見られる。勧進帳に出て来る弁慶の山伏問答の「あなかしこ、あなかしこ、大日本の神祇、諸仏諸菩薩うんぬん」とやる「かしこ」も、神主さんの「かしこみ、かしこみ」も、神に対する敬意の表現であるし、ひいては女性が手紙の最後に以前よく書いた「かしこ」もその例。「分った」の意味で敬意を込めて言う「かしこまりました」もそうで、これらは全て一つの和語から来ており底では皆繋がっている。

「かしこ(賢・畏)い」「賢所(かしこどころ)」

また、神々に対しての様に「畏れ・畏怖」を抱かせる人格であればこそ「かしこ(賢・畏)い」のだ、今では単に「利口」の意味になってしまったが。そう言えば、宮中には三種の神器のうち、神鏡のコピーが祭ってあり(本物は伊勢神宮にある)その場所を「賢所」と書いて「かしこどころ」と呼ぶが、これも現代的な意味の利口とは無関係だ。

ケベック州の罵り言葉に見る、タブーの反動としての「聖なる言葉」

ところで、カトリック教の方で「賢所(かしこどころ)」に当る言葉は何と言ってもTabernacleだろう。「聖櫃(せいひつ)」つまり「聖体を入れる箱」であるからである。しかし、名著「ケベックの街角で」(玉川選書:1980)で原道子さんがユーモアたっぷりに書かれた様に、ケベッコワ達が「Tabernacle!(聖櫃)」「Calice!(聖盃)」「Ciboire!(聖体器)」などと叫ぶのを聞いたからと言って、彼等が熱心にミサの用意をしているなどと思ってはならない。これらはケベック独特の罵りの言葉であり、これらはひとまとめに「Sacres」と呼ばれる。直訳すれば「聖なる言葉」だが、もちろん揶揄である。英語のswearwordも原意は「神への誓い」だ。

1960年代の「静かな革命」以前には、カトリック信仰がフランス系カナダ人の毎日の生活を決定的に規定し条件づけていた。その時代の興味深い名残りだろう。タブーの反動としてこれら「聖なる言葉」が残った訳である。同じフランス語圏でもフランス国内であれば「性なる言葉」が罵りとして連なる所だろう。

最近の日本にみる「自然な話し方」

ケベックの「静かな革命」ほどの急激な変化が生じるとは思われないが、日本でも最近は公的な場面でも女性が高音でない「普通の、自然な話し方」をし始めたと聞く。女性アナウンサーの声も低くなる傾向だとか。そう言えば社民党の「おたかさん」こと土井たか子氏などは、お名前とは裏腹に、声は低い。

今後、デパートなどサービス業において客に対する女性の声が次第に低くなっていくのかどうか、社会言語学的に見て面白い研究テーマかも知れない。日本へ行く学生にはこれから毎年テープレコーダーを持って行かせてみようか。 (1994年11月)

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