第2回 「ラ抜き言葉」という名称は正しくない:ラ抜き議論はマ抜け

今回は「ラ抜き言葉」についてお話ししたい。「らぬき?何のこっちゃ」とつぶやかれる方も多いとも思うが、最近日本でよく目や耳にする言葉である。

「ここまで来れました」は「ラ抜き言葉」で「誤用」なのか

「来れる」に対する批判

数年前、「早いものでカナダも今年で20年。多くの方に励まされてここまで来れました」と投稿記事の中に書いたら、ある方から「来れました」ではなく「来られました」ではないか、とのファックスを戴いたことがある。二つを比べると前者には「ら」が抜けている様に見える。
これが「ラ抜き言葉」と呼ばれる現象で、頻繁に目にするが普通は誤用とされている。

「来られる」には「可能」の他に「尊敬」「受身」の用法もある

「来ることが出来る」の意味で「来られる」と言えることは確かで何人も否定出来ない。ただし「来られる」には「可能」の他に「尊敬」(昨夜、お客様が二人来られた)や「(迷惑の)受身」(朝の二時に弟に来られた)などの用法があることも思いつかれよう。学校文法で言う所の「可能・自発・尊敬・受身」の「れる・られる」である。

五段動詞における「可能」の一段動詞化

さて、おそらくその多機能さにも深く関係しているのだろうが、「可能」に関しては、「れる・られる」の他に、よく使われる人気の別形「E」がある。
その人気の理由は、

  1. 「機能が可能専用である」点にも増して
  2. 「形が「れる・られ」るより短い」点であろう。

なにしろ日本語動詞の約2/3を占める五段動詞の子音語幹(例「飲む」のNOM-)に「E」がついて一段動詞となるだけなのだ。「飲まれる」と「飲める」を比べると、後者の方が形の上でも意味の上でも簡単なのは明らかである。

「母音が続かない」のは長い間日本語の特徴だった

それなら残りの1/3である一段動詞にも同様に「E」を付けたい所だが、五段動詞と違ってこちらは語幹が「食べ(TABE-)」など母音であることが問題である。母音を重ねない為に語幹「E」の間に子音の「R」を挟んだものが「食べれる・見れる」などである。

上記の「来れる」は不規則動詞「来る」の場合だが、ほぼ同じ状況下にある。何を隠そう、この様に「母音が続かない」というのは長い間日本語の特徴だったのである。今なら「青い」の様に母音がA-O-Iと3つも続くことが可能だが、これとて古形は「あをし」A-WO-SIであった。和歌や俳句で旧仮名を使う時に、例えば「花匂う」を「花におう」NI-O-Uでなく「花にほふ」NI-HO-HUと書くのも母音の重なりが無かったことの証拠である。

学校文法や、外国人に日本を教える際に、「ラ抜き言葉」が誤用であるとするのは問題である

さて、問題は上記の「食べれる・見れる」などと言う形が「ラ抜き言葉」と呼ばれ、学校文法でも、外国語としての日本語文法でも一様に誤用とされていることだ。「ラ抜き」とは、「食べられる」と「食べれる」を比べた上で、後者に「ら」が抜けていると見なされた呼称である。

「ラ抜き」ではなく「緩衝子音のRつき」

「ラ抜き」と言う言葉は本当に正しいのだろうか。上で見た様に動詞の過半数を占める五段動詞にならって、一段動詞にも同じように語幹に「E」をつけたことが「食べれる」などが派生した原因であり、「れる・られる」とは全く別物と見た方がいいのではないか。

「食べれる」「見れる」「来れる」は尊敬にも受身にもならない、「可能」だけである

「食べれる」の意味も「可能」だけで「尊敬・自発・受身」など示さないことも「飲める」などと共通している。例えば「カンニングしているところを先生に見られた」「先生が嬉しそうに新着の本を見られた」の「見られた」はそれぞれ受身と尊敬だが、これらは決して「見れた」とならない。それは、「可能」の「見れる」が「見られる」の変形でないことの傍証と言えるだろう。

「ラ抜き」ではなく「Rつき」

結論を言えば、「見れる」は「見られる」から「ら」を抜いたものではなく、上記のように「見(mi)」と「-E」の間に緩衝子音の「R」を挟んだものなのである。この状況に名前をつけるとすれば「ラ抜き」ではなく「Rつき」の方が正確であろう。

「仮定」表現の「ラ抜き言葉」には、誰も騒がない

それでもまだ納得出来ない読者の為に、もう一点付け加えておこう。「R付き言葉」は他にも例があるのだ。上と全く並行する形で仮定の表現の「飲めば・食べれば」がその一つである。

五段動詞の「飲めば」を分解すれば、語幹と助動詞がNOM-EBAと並んでいる。一方、一段動詞の「食べれば」は、それと同じように語幹と助動詞をTABE-EBAと出来ない。そう出来ない理由は、上に述べた「母音衝突」のせいである。そこで子音の-Rを挟んだのがTABE-R-EBA「食べれば」である。

「受身・可能・自発・尊敬」の「飲まれる・食べられる」では、NOM-ARERUに対するTABE-R-ARERUの-Rも、これまた同じ「母音衝突を避ける為のバッファー子音R」だ。「食べれば」や「食べられる」の方は誰も騒がないのに、全くの並行現象である「食べれる」に国を挙げて大フィーバーする理由は一体何なのか、私には理解出来ない。納得できる様にどなたかに説明して頂きたい所である。

因みに、私は北海道北見市の出身だが、北海道から東北にかけては命令文に「飲め」と並んで「食べれ」がある。東京に行ってからこの形を使っては悪友どもに大いに笑われたものだが、考えてみると「飲め!」がいいなら、「母音衝突」を避ける「R付き言葉」の「食べれ」は、上の仮定表現の様に、極めて合理的なものなのだ。わざわざ最後の母音まで変えて「食べろ」と言うのは、むしろ「最小努力の法則」に反する不思議な現象と思えるが、言葉は生き物であり、合理的かどうかということと使用は別問題であるから仕方がない。

「ラ抜き」ではなく「Rつき」であると分かれば、母音衝突を避けるバッファー子音挿入が理解できる

日本語におけるバッファー子音「S」「Y」

なお、母音衝突を避けるバッファー子音挿入は日本語では他にも例が多い。挿入される子音も-Rだけではない。「使役」の「飲ませる・食べさせる」では、NOM-ASERUに対するTABE-S-ASERUと-Sが入る。「意志・勧誘」の「飲もう・食べよう」ではNOM-OOに対するTABE-Y-OOと-Yが入る。動詞や助動詞のレベルだけではなく、名詞と名詞の間、例えば「春」に「雨」を続けた時に「はるさめ」となるのも、HARU-S-AMEと-Sを入れて語調を整えているのだ。「真っ青」も同様である。

フランス語におけるバッファー子音「Z」

それは、何ら日本語に限られた現象ではない。「母音連続」はhiatus(ハイエイタス)という文法用語で呼ばれ、例えばフランス語のリエゾンはそれを避けようとするものだ。「幸わせです」は「(Je) suis heureux」だが、最後の2語は切り離して発音すると「スイ・ウールー」なのに、続けると「スイズールー」となる。一語のみでは発音されない「suis (スイ)」の最後の子音-Sが復活し、母音で挟まれたSの常として有声化し、/z/音で発音される為である。これも何故か、と言えば、「スイ」が母音/i/で終っているのに、それにまた「ウールー」と母音が続くのを、仏語話者も避けたい為である。

韓国語におけるバッファー子音「N」

日本語の助詞「は」と「が」の区別は朝鮮語にもちゃんとあって、韓国からの学習者が「何でそんな大騒ぎするの?」と不思議な顔をするほどだが、ここでは母音連続の話を急ごう。朝鮮語で「は」に当たる助詞は「(n)шn」である。最初にかっこで括られた(n)はまさに「母音連続」を避ける為のもので、先行する名詞が母音で終る時はこの括弧がはずれてnが現れ、母音連続が避けられる。(例:スンジャヌン「スンジャ(人名:順子)は、」)逆に名詞が子音で終るなら、このnがあっては子音連続となるから、括弧のnは現れない。(例:トンシグン「トンシク(人名:東植)は、」同様のことは日本語の「を」に相当する格助詞「(r)шl」でも言える。

まとめ:「ラ抜き」議論は「マ抜け」である

これらの考察を通じて、「ラ抜き」という言葉がいささか「マ抜け」なことがご理解頂けたのではないだろうか。「食べれる」は、形も意味も一致している「飲める」と並行して考察されなくてはならない。

さらに言えば、五段動詞に可能だけを意味する助動詞があるなら、一段動詞に同じ物があって当然なのである。「は」に当たる朝鮮語の助詞「(n)шn」に習えば、日本語の可能の助動詞は「(r)e-」として一つにまとめられる。

英語ばかりを眺めていないで、お隣の朝鮮語を見ていたら、トンチンカンな「ラ抜き言葉」などという用語も、それを日本語教育では認めるべきか否か、などというレベルの低い論争も必要がなかったであろう。

以上、これまで何ら疑問を持たずに議論されている「見れる・来れる・食べれる」などが、実は意味内容が一致していない「見られる・来られる・食べられる」などとそれぞれ比べられた結果として「ラ抜き言葉」と呼ばれるようになったことを指摘した。前提が間違っているのだから、「ラ抜き言葉」という言葉は使うべきではない。どうしても言うとしたら「R付き言葉」の方が正しいだろうが、これ自体は他にも例が沢山あって、何ら不思議な現象ではないのである。少なくとも朝鮮語文法の方では「(n)шn」の/n/が現れた形をいちいち「N付き言葉」などとは呼んでいない。

おまけ

「こう言うべきだ」という規範文法は文法を表現に先行させようとする危険性を帯びる

言うまでもないが、ここでは私自身が「食べれる」などという言い方をするか、学生が使ったらそれをエラーとするか、と言った議論はここでは一切しなかった。

  1. 言葉は常に変化する生き物である、ということ
  2. 五段動詞に可能形があるのに、それに形も意味も相当するものが一段動詞がないのは変だ、ということ

だけが私の立場だとだけここでは言っておこう。文法はいつだって表現の後を追うものであり、「こう言うべきだ」という規範文法は文法を表現に先行させようとする危険性を帯びる。

抜けているのは「ラ」ではなくて、議論そのものの底

今回はこの「ラ抜き言葉」をむしろ象徴的な意味で問題提起をしてみたかった。我々は、もっと合理的に考える習慣を身につけたいものだ。合理的に考えれば「ラ抜き言葉」は前提がそもそも誤っているが分かる。そんな「ラ抜き」言葉論争に血道をあげるより前に、「抜けて」いるのは「ラ」ではなくて、議論そのものの底であることに気付いて戴きたい。

さて、「食べれる・見れる・来れる」などの形はこの様に合理的なものだし、ずっと昔から見られるものなのだが、頭からこれを誤用と見做す人も多い。つまり許容度の「ゆれ」があるのである。私はと言えばこの稿で「来れる」を使ったぐらいで、これら三例についてはさほど間違いとは感じられない。しかし(1)語幹が長い場合(2)本来「一字の漢語+する」だったのが「漢語+じる」になったものは例外であって(1)の例「?考えれる・?答えれる」や(2)の例「?感じれる・?信じれる」などにはやはり抵抗がある。

「サ付き言葉」は明らかな誤用

最後に「ラ抜き言葉」とよく似た「サ付き言葉」にも触れておこう。これは明らかな誤用で、命名も正しい。

それは一段動詞の「使役受身形」が問題の出発点にある。例えば「食べさせられる」(意味:自分は嫌がっているのに食べることを強制される)で、これは正しい形だ。ところがここで語幹「食べ」につけられる助動詞「させられる」がそのままの形で五段動詞につけられたものが「さつき言葉」である。従って「飲ま・さ・せられる」は誤用。ここの「さ」は不要であって「飲ませられる」が正しく、さらにはその縮約形の「飲まされる」さえある。

しかし、何度も書く様に、皆が使い始めたら「誤用」でなくなるのが生きた言葉なのである。若者に多く見られると言うから、この「さつき言葉」という単語自体、流行る前にいつしか消えてしまう運命にあるのかも知れない。

余談ですが、皆さん、旧仮名の練習もかねて俳句をなさいませんか。因みにモントリオールには、その名も「さつき会」という句会があります。

1995年1月

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