第4回 ケベッコワと外来語:日本語が外来語なんかではビクともしない4つの理由

モントリオールで日本語を教えて気付いたことの一つに、日本人が好んで多用する「外来語」(特に英語からの)に対して、ケベックの学生が反射的に眉をひそめる、という事実がある。それはそうかも知れない。セーターやワイシャツがベッドの上にあったり、コンビニとかスーパーでオレンジジュースを買ったり、ファミコンで遊んだりと、かくも西洋化の進んだ現代日本のことだ。大和言葉は今や危機に瀕している、という嘆きの声は新聞や雑誌の「読者のページ」などで頻繁にお目にかかる。

旧サイト:金谷武洋の『日本語に主語はいらない』第4回「ケベッコワと外来語」(1996年1月執筆、2005年9月3日公開)から移動

外来語の日本語侵入を憂慮するケベッコワ学生

言語法で守られるケベック州のフランス語

さて、こんな話をするとケベックの学生は文字通りクワッ(Quoi!)と目をむいて、日本語とは何という植民地言語かとあきれるのである。我々は言語法という法的手段まで使って北米における言語的孤島であるフランス語を守ってきたのだ。こんな状態を日本政府(文部省?)は放っておくのか。困るのは外国ではないから、「ガイアツ」はやって来ないぞ。などと真剣に心配してくれるのである。(因に「ガイアツ」は日本通の学生が気に入ってよく使う、日本語発、仏語などにとっての外来語である)

フランスのフランス語には英語も取り入れられるようになってきた

驚かれるも知れないが、書き言葉でも英語をそのまま使うのはケベックよりもむしろフランスの方である。よく引用される例では「週末」の「駐車場」のがある。ケベックではそれぞれ、とフランス語で言う。なにせケベックではプロ野球用語まで仏語なのだから驚く。モントリオールにはエキスポスというあまり強くない(名前からして凄味のない)プロ野球チームがあり、よくテレビで実況放送をやっているが、アナウンサーが叫んでいる「プリーズ、ク・シュール、スィルキュイ」などはそれぞれストライク、ヒット、ホームランのことである。日本とはえらい違いだ。

カタカナ外来語には、日本語教育上のメリットがある

日本語の固有語彙を国が保護しないことに義憤を感じてくれるケベッコワ学生の気持は有難いが、しかし、日本語教育とは別問題である。現にこれまで外来語が日常生活で使われている以上、教えないわけにはいかない。第一、後述する様に、いわゆる「カタカナ語」には大きな教育上のメリットもある。

日本語は外来語なんかではビクともしない4つの理由

理由1 品詞上の免疫:カタカナ外来語は漢語と同じで、名詞にしかなれない

一つ極めて重要なのは、これらカタカナ語はその殆どが名詞であると言う事実である。実はこれは漢語でも同じであって、活用する用言(動詞、形容詞、副詞、助動詞など)は未だに大和言葉の聖域なのである。それだけではない。文の構造を決定する(あるいは国学者の本居宣長が抱いたイメージでは「玉(体言)」を結ぶ「緒」つまり「ひも」である)「てにをは」、人称代名詞の陰の薄い日本語を別の空間的な原理で支えている「こそあど」、これらの全てが大和言葉の牙城だ。心配顔の学生に「大丈夫、日本語は外来語なんかではビクともしませんよ」と私が言うのはそのためである。

何かと目くじらを立てられるカタカナ語だが、実は日本語は何層もの防衛機能(免疫)でそれらから守られている、と私は思う。ここまで述べた「カタカナ語は漢語同様、名詞にしかなれない」というのを日本語の持つ
(1)品詞上の免疫と仮に呼ぶなら、

他に少なくとも3つ、つまり
(2)基礎語彙
(3)表記
(4)発音の面
での免疫を日本語はカタカナ語に対して併せ持っていると思う。以下にこの順で説明を加えていくことにしよう。

理由2 基礎言語:最も頻繁に使われる語群は和語

(2)基礎語彙とは、品詞とは関係なく日常生活で最も頻繁に使われる語群を指していう。二つの異なった言語が、系統的に一つの母語から分かれたものかどうか(英語とドイツ語はその例)を論じる時には先ず基礎語彙の比較から始めるものである。「て・あし」などの人体の部位とか、「はしる・はなす」など基本的な行為とか「うえ・した」など位置関係を表わす語彙がそういったものである。さて、容易に予想出来るように、日本語の基礎語彙は圧倒的に和語が占めていて、外来語は殆どない。基礎語彙とは食事に例えて言えば御飯、味噌汁、お新香であり、おかずは変わっても「いつもそこにあるお馴染みのもの」である。カタカナ語が増えたと言っても、昼食にウィンナーかハムが付いた程度のものである。「何を食べたの」と聞かれたら普通はおかずの方を言うだろう。上の喩えで言えば、木ならまず花か葉を見て「目立たない」幹や枝は語らないのと同じだ。しかし幹や枝がなければ葉も花もないことに我々はなかなか気付かないのである。

少し統計を当たってみよう。宮島達夫の『近代語彙の構成』(1967)によれば、753年から1331年までに書かれた14の日本の古典文学作品には「延べ総数」で約40万語あった。一方、どんなに多くても、たった一回しか使われなくても一語と数える「異なり数」の方では23,880語あった。さて、この内使用頻度の多い上位10語(つまり基本語彙トップテン)をその使用回数を添えて示すと次の様である。ある(9034)・こと(7654)・ひと(7364)・する(6585)・いと(6210)・ない(5785)・こころ(4930)・おもう(4567)・みる(4101)・もの(4091) 驚くべきことに、このトップテンには唯一の例外(第5位の「いと」)を除いて残りはそのまま現代日本語でも基礎語彙の上位を占めるのである。これらが全て和語であることは言うまでもない。おかずをモダンなものにしても、日本人が綿々と受け継いで来た御飯、味噌汁、お新香の三点セットを捨てるとは思えないし、食事(言語)全体におかず(カタカナ語)が占める割合にはやはり限度があるのではないだろうか。カナダ生活17年目にして、いまだにせっせと和食(らしいもの)を作っている自分などにはそう思えるのだが如何だろうか。

理由3 表記上の免疫:外来語はわざわざカタカナで目立たせずにはいられない

(3)次に表記上の免疫を挙げたい。一体カタカナ語がこれほど「目立つ」のはなぜだろうか。上に述べた様に、幹や枝より花や葉が、御飯や味噌汁よりおかずが目立つのは当然かも知れない。しかしそれ以上に何かが….と首を傾げる人もいるだろう。カタカナ語が目立つ最大の理由はそれが何よりカタカナで書かれるからである。勿論、カタカナによる有標化は別の積極的な効果も持つ。広告のコピー、若者や女性向けに売り出される新製品には特にカタカナ語が多いのはよく知られた市場戦術であるが、これもカタカナ語の「目立つ」効果を狙ったものだ。鈴木孝夫の『日本語と外国語』(1990)に面白いことが書いてある。トヨタ自動車は戦後クラウン(王冠)を発表して以来、車の名称に冠シリーズを考え、コロナ・カローナ・カリーナ・クレスタなどと冠に関係のある名前を長年使ってきた。ところがさすがにもう単語が乏しくなったので、ずばり日本語の「冠(かんむり)」を使うことを思いついた。「だがカンムリでは困る。日本語だとすぐ分かるからだ。そこで別形のカムリ(…)を採用した」(この話にはさらに興味深い発展がある。ローマ字綴りで《Kamuri》としたのではまだ日本語みたいで「売れ行き効果に問題があるから」英語的に《Camry》と書いたというのである。日本人に根強い「舶来志向」と営業部の苦労が分かって興味深い。

理由4 発音上の免疫:発音と語形を魔改造して日本語化

(4)発音上の免疫もある。多くの外来語は日本語に取り入れられるに当たって、発音上、語形上の日本語化のプロセスを通ってくるのである。

発音上の日本語化

これは子音が連続する単語において顕著で、よく挙げられる例だが、元来は一音節しかない英単語《Strike》が日本語では何と5音節にもなり、野球用語ではストライク、労働組合関係ではストライキとそれぞれ「変身」する。このまま外来語として発音したのでは英語話者には分からないであろう。余談だが、日本語で話しているのに、カタカナ語だけは「英語の発音」を挿入する話者が時々いる。それが日本語の上手な英語話者ならまだ分かるが、日本語を母国語とする者である場合は、これを「耳障り」と否定的に反応する人が多いのは興味深い事象である。「キザ」とか「エリート意識丸だし」などという反応が多いのは、発音上の洗礼を受けていない言葉達はあくまで「外国語」であり、「外来語」ではないことを物語っていると思う。「外来語」は発音、表記、品詞、意味のどの点からも「日本語の単語」として捉えるのが最も理に叶っていよう。

語形の二音節化(二拍子化)

語形の変化ではさらに面白い現象に、日本人が得意とする、はさみを使ってのバッサリ変形がある。外国語が長いと遠慮なく切ってしまうのである。前述の基礎語彙における「ある・こと・ひと・する・いと・ない・みる・もの」などに明らかな様に、日本語の基本リズムは二音節(二拍子)と思われるが、多くの漢語が漢字二字の4音節(学校、大学、社会、経済など)であることからの類推も恐らくあって、切った後の外来語も4音節(しかもその多くが意味的に2ー2で切れる)のものが多い。例にはそれこそ切りがないが、パソコン、ラジカセ、マスコミ、ハイテク、イメチェンといった風である。最近のものではセクハラ(セクシャル・ハラスメント)、コンビニ(コンビニエント・ストア)、ドラクエ(ドラゴン・クエスト)、今回700人もの子供を病院に送ったポケモン(ポケット・モンスター)など。こういったカタカナ語に至ってはカナダ人学生にまるで手が出ず、一々覚えるしかないが、国外に住む我々日本人にとってもやはり新語なのである。

日本語学習者にとってのカタカナ外来語のメリット

カタカナ語は語彙増強に便利なツール

さて、日本語教室での外来語の扱いだが、私は積極的に導入している。日本語を「汚染」する敵どころか、日本語化の幾つかのプロセスを経た、日本語の語彙として教えている。全語彙の一割を占める「日本語の花であり葉」であるのなら、むしろその長所に目を向けたい。漢字文化圏の学生にとって漢語の存在が有利であるように、英語を知っている学生にはカタカナ語は「組みやすい相手」なのである。何よりもこれらの言葉はカタカナ表記で目に飛び込んで来る。しかも、その大半は既に「大体の」意味を知っている筈のものなのである。日本語語彙の一割強と言えば軽く数千に及ぶ。外来語だけでは勿論日本語は話せないが、初級文法と基礎語彙の習得の後に必ずやってくる「語彙不足」の問題をかなり軽減出来るメリットは見逃せない。

カタカナ語は日本語の基本構文を浮き上がらせる

さらに、語彙や表記の面に注意を奪われずに、日本語の基本構文をしっかり把握させたい、といった場合にもカタカナ語は便利である。例えば動詞文の学習に「ジャックは、そのレストランでフィアンセとピザを食べた」などという文を敢えて使ってみる。この文は如何にも外来語ばかりで「日本文らしく」ないように見えるが、実はこれほど日本文らしい文もなく、逆説的だが、日本語の強靭さをよく示している。活用する動詞も、「こそあど」も「てにをは」も、全て和語であることがこの文から説明出来、決してカタカナでは書かれない「てにをは」が自然にこの文から浮かび上がって、動詞文の構造が(わざわざ分かち書きせずとも)学生に明確に把握出来るからだ。しかも、ここに見られる基本構文は、日本語が日本語となった大昔から、何度の外来語の波にも拘わらず一貫していることに、私は感動すら覚えてしまう。

おわりに

最後に、日本とケベック州のフランス語の置かれた言語的状況を比較してみたい。ケベックの文化的、言語的な危機意識には切実なものがある。これは主として地政学的な理由によるものだが、あまり語られていないのは、純粋に言語学的な状況分析である。一言で言うと、英語とフランス語はあまりに言語として「似すぎている」のである。それが故に、我々がこの稿で述べてきたような「防衛機能・免疫」をフランス語は英語に対して持っていない。上記で挙げた日本語の4つの免疫の内で、フランス語に認められるのはせいぜい基礎語彙に関するものだけであろう。かくして、自己内部に英語に対する免疫を持たないフランス語は、職場における英語語彙の仏訳の義務化などという言語法によって、自分の言語的アイデンティティを守ろうとしているのである。内部に免疫を持たない言語が、外側から、人為的に法律というワクチンを注入している思えば理解しやすいかも知れない。

(1996年1月)

[aside]ちえ蔵ノート
ケベック州には、言語法(正式名称:フランス語憲章(日)、Charte de la langue française(仏)、Charter of the French Language(英))という法律があり、ケベック州では公用語として、フランス語だけを使うことが決められています。この法律は結構厳しくて、1993年に、商業用広告の英仏両語表記が認めらるまでは、中華街の中華レストランなどで、中国語の店の看板などを出すことも禁じられていました(実際には罰金を払って看板をだしていた)。

ケベッコワ達のフランス語へのこだわりはとても強く、今でも150年前の正しいフランス語を使っているのは、誇りでもあるのですが、本国フランスの方ではフランス語に英語も取り入れてしまっており、現在はフランスで話されるフランス語と、カナダで話されるフランス語はかなり違ってきています。
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