第3回 「葉と歯って元々同じだったと思う」:和語にみる日本人の世界観

海外で日本語を教えていて一番有難いのは、学生の素朴な質問に触発されて日本語や日本人に関して教師の我々自身が思いもかけない発見をすることである。今回はそういった経験から特に心に残ったもの一件をご紹介したい。正に日本語教師の「役得」と言うべき喜びを読者の皆さんとも分かち合えればと思う。

旧ブログ:金谷武洋の『日本語に主語はいらない』第3回「葉と歯って元々同じだったと思う」(1995年8月執筆、2005年9月3日公開)から移動

「先生、葉と歯ってもともと同じ言葉だったんじゃないかしら?」

フランス系カナダ人生徒からの質問

あれは5年ほど前のことだったろうか。3年生のクラスが終わった後、よく出来る女子学生が「質問があるんですが」と言って残った。どうぞ、と言うと「先生、feuilleは日本語で「葉」でしょう。これとdentの「歯」。発音が同じ「は」ですね。形もよく似てますから、和語では元々同じ言葉だったんじゃないかしら」と聞く。

急にこんな質問をされて絶句。

「うーん」と唸っていると、「それにfleurは「花」でnezも「鼻」でしょう。これも偶然じゃないと思います」と畳みかけてくる。(そう言えば「顔の真ん中で咲いている」鼻もよく見るなあ)と思いながら「面白いことに気が付いたね。先生も考えてみるから」と答えて、自分への宿題にして帰ってきた。

これは面白いことになったぞ。調べてみるのが楽しみだ。

調べてみたが、「葉と歯」はない、「花と鼻」もない

帰って辞書類をあれこれ開いてみる。しかし「鼻と花は同根」というような記述はどこにもない。「歯」と「葉」に関しても同じである。東アジア研究所の図書館にも足を運んだがどうにも埒があかない。彼女の指摘を支持するような記事はない様だ。岩波古語辞典に「鼻と端(はな)は(先端の意味)で同根」と書いてあった程度。ふうむ。だめか。次のクラスで彼女に「面白いけど偶然の一致みたいだよ」と言うしかないか、と辞典を綴じかけた時である。

ふと頭に「目」という単語が閃いた。そして、その時の胸の鼓動を今もかすかに覚えている。待てよ!「目」なら「芽」があるじゃないか! おまけに形も似ているぞ。

「芽と目」があった!

古語辞典を慌てて再び繰ってみると、果たしてこっちは明快に「「目」と「芽」は同根」とあった。さて、こうまで対応項目が並ぶと、ちょっと異常ではないか。一方に顔の部位としても「歯・鼻・目」があり、もう一方には植物の部位としての「葉・花・芽」がある訳だ。

これらに形の上での共通性があって、しかも発音が同じというのだから、これはすごい。和語は漢字導入以前から存在していたものである。教え子の女子学生が言う様に、今は漢字で「書き分け」ている(から共通性は感じにくい)ものの、和語としてはこの3つのペアは本来それぞれ同じものであったのではないか。いやそうなのに違いない。

何かこの件に関して書いたものがないか、と引き続きあれこれ当ってみたら、やっと一冊見つかった。荒木博之の『日本語が見えると英語も見える』(中公新書・1994年)という本である。

驚くなかれ、対応はこの3組だけではないことを知る。ぶら下がっている「耳(mimi)」と「実(mi)」、ふくらむ「頬(hoho)」と「穂(ho)」も、音の繰り返しはあるが同じではないかと著者は言う。5つもペアを挙げられると、白旗を挙げるしかない。圧倒的な説得力である。

韓国語でも「目と芽」「鼻と花」「歯と葉」は似ている

さらに著者の指摘で注目すべきことがあった。前者三組に関して言えば、お隣の朝鮮語でも同じか、よく似ているというのである。目と芽はヌン、鼻はコで花はコツ、歯はイで葉はイップだが、時代が遡ればさらに近くなるという。

英語など西洋語でこれらの語に音の対応が見られないこともあって、日本の国語学者や言語学者は「は・はな・め・ほ(ほ)・み(み)」の語形が顔と植物の語彙にパラレルに見られる状況を単なる偶然、民間語源説(前回拙稿参照)と決めつけて無視してきた、と著者が憤慨している。もしそうなら誠に由々しき事態で、日本語の研究に東アジアからの視点が欠如していることを嘆かなければならない。

「歯と葉」は人間を自然の一部として捉えようとする世界観の現れ?

私はと言えば、これらはとても偶然とは言えないと思う。それどころか、古代から綿々として受け継がれて来た東アジアの自然観が窺える言語上の好例ではないかと思うのである。

それは取りもなおさず「人間を自然の一部として捉えようとする世界観」である。人間の顔の部位を植物の部位に「見立てた」のであって、決して偶然の産物ではあるまい。文化的に極めて必然的な隠喩(メタファー)として捉えてこそ、日本と朝鮮半島に住む人々の自然観なり美意識が読み取れると思うのである。

以下、別な例を挙げながら私の印象の傍証を重ねていくことにしたい。

和語にみる日本人の世界観

自然に囲まれようとする日本人の美意識

進んで自然に取り囲まれようとする日本人の美意識は至る所に窺える。花を活ける華道、一碗の茶を供し供される所に一期一会を生きようとする茶道は言うに及ばず、和歌や俳句にした所で、人為を自然に託し(あるいは「見立てた」)作品の多さには驚かされる。

有名な古今集仮名序に「大和うたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりにける」とあるのも、和歌は意識的に「作る」のではなく、自然に「出来る」ものであると述べたものである。「出来る」とは文字通りに「出て来る」のであって、その点では西洋の詩(poem)の語源がギリシャ語の「作る(poiein)」から来た「作られたもの・作品」であるのとは発想において対照的である。

俳句の方では、江戸時代の三大俳人と言えば誰でも「芭蕉・蕪村・一茶」と知っている。自分で選んだ俳号には恐らく自分の理想像を言い含めたろうが、三人とも号に草かんむりを配したのも、よもや「偶然」ではあるまい。

自然体をよしとする日本人の価値観

現代日本でもこの「自然体」をよしとする価値観は依然健在である。富や名声、政治的権力の掌握に余念なく、手段を選ばぬようなゴリ押しの野心家やあまり評価されない。それよりはこつこつと人に見えない努力をして実力をつけ「実るほどに頭の垂れる」ごとき人物こそ良しとされる訳である。

努力の「実った」人こそ「よく出来た」人と言われる。さらに長老とでもなれば、その第一の人間的魅力は無私無欲で飄々とした「枯れた」所にこそあるのだろう。「枯れてますね」と言われて喜ぶ欧米人はいるまいが。

日本人にとって強さの象徴とは

翌週の教室で「皆さん、Aさんがこんなことに気がついたんですが、素晴しい発見です」とほめてやり、それから発展して日本人の自然観もひとくさり話してみた所、学生の目がキラキラ輝くのが見てとれた。

他の学生が手を挙げて「そう言えば相撲取りの名前って変だなあ、と思っていました」と言う。この男子学生は日本に住んだことがあるので知識が豊富だ。

先ほど俳人の号を例にあげたが、この学生は相撲にも同じことが言えることを教えてくれた訳である。昔の双葉山から今をときめく貴乃花、若乃花兄弟まで、力士のシコ名も極めて示唆に富んでいる。俳号と同じ様に、シコ名だって力士としての理想の姿を名前に折り込んだものに違いない。ならば、日本人にとって「強そうな名前」とはどういったものだろうか。それは、そこにあって不動の自然物(山・嶺・島・富士)であり、人間のコントロールの効かない勢いを帯びるもの(海・川・波)であり、そして自然に大きく育つ植物(花・杉・藤)などである。勿論例外もあるが、強さの象徴が動物や人間や神話の英雄などであることはごく稀なのである。これに対して、外来のスポーツであるプロ野球のチーム名を見ると、巨人だの虎だの鷹だの鯨だのが目白押しで実にくっきりと対照をなしていて面白い。私もカナダ生活が長く、最近はチーム名も変わったかも知れないが、まぁ大勢は似た様なものではないだろうか。

日本語に反映される日本人の世界観

日本人の世界観を理解すれば、日本語の構文学習にも役立つ

さて、こういった日本人の世界観が日本語に反映されていない筈はないから、この種の「文化論」は後の日本語の構文学習にも大いに役立つ。例えば、英語でOh! I see Mt. Fuji.と言う様な状況において、日本語ではよく「あっ、富士山が見える」と言うのだが、この文法説明はなかなか大変である。しかし、上の様な文化論から「欧米諸語では人間を行為者として積極的に捉える傾向が強い。一方、日本語(やその他の東アジアの言語)では人間はせいぜい「場所」として登場し、あたかもその場所を通じた自然現象の様に同じ状況が言語化される傾向が強い」と伏線を用意しておけば、学生はグッと理解が楽になる。

英語で主語が「私」でも、日本語では「私という場」程度なのが自然

つまり、上の2文において英語では主語が「私」であり、他動詞文における直接目的語としてMt.Fujiをとっている。これに対して日本語では、肝心の「私」は不在(あるいは「私には」とせいぜい「場所」(つまりtoposから派生したtopicとしての「主題」)で現われうるが決して義務的ではない)で、主役が「富士山」の自動詞文であるという状況も学生はよく分かってもらえるという訳だ。つまり日本語では(To me,) Mt. Fuji is visible.の様に言うのが自然であるということである。

日本人の世界観に、「私」という主語は希薄である

さて、同じ様な状況が先程の「可能」(日本語が出来る(話せる)・I can speak Japanese)の他、「所有」(お金がある・I have some money) にも、「欲求」(この家が欲しい・I want this house) にも、「理解」(これが見たい・I want to see this) にも、「必要」(時間が要る・I need time)にも、「好き嫌い」(この街が好きだ・I like this city) にも見られるのだが、それらを全て底で共通に支えている「世界観」の説明があれば、よく納得して貰える訳だ。

まとめ

歯と葉、目と芽、鼻と花の関連を手係りに日本人の自然観が日本語に色濃く反映している様子をさぐってみた。そのきっかけになったのは、冒頭の女子学生の質問である。

言語学者の池上嘉彦はこういった日本語の構文表現を観察して、英語は「する言語」、日本語は「なる言語」とタイプ分けしている。とても面白い本なので大修館から出ている「するとなるの言語学」の一読をお勧めしたい。

1995年8月

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