第14回 常用漢字の不思議:制限よりルビを、漢字制限は語彙を貧しくする

 9月11日の恐怖のテロ事件に引き続いてAnthrax(炭疽菌)という以前は聞いた事もない厄介な代物がテレビや新聞を賑わしている。今の所カナダまでは被害が及んでいないのがせめてもの救いだが、今回の航空機テロの対象となったニューヨークやワシントンと当地モントリオールとは陸続きでそれほど離れていないことを思うとやはり不安になる。
旧サイト:金谷武洋の『日本語に主語はいらない』 第14回 「常用漢字の不思議」(2002年1月執筆、2005年9月6日公開)から移動

「何故そうなったか」

ブッシュ大統領がビンラディンばりの二元論で「善か悪か」で威勢のいいスピーチをする度に、どこか違和感を持たずにはいられない。アメリカの外交政策にも悪があったことを認めない限り、アメリカは憎まれ続けるだろうし、仮にビンラディンが逮捕、処刑されても彼に続く二、第三のテロリスト活動家が澎湃することは間違いないと思う。アメリカは今度のテロ事件に関して「誰」がやったのか、「何」を目標にしたのかを問うばかりで、それよりも大切な「何故」こんな大事件が起きたのかを自問しようとしない。「何故」には当然、自己批判の視点も含まれるがそれは超大国のプライドが許さないのだろう。しかし、そのプロセスを経ぬ限り、テロ活動は決して予防出来ないと思われる。アフガニスタンの空爆は多くのイスラム教徒のアメリカに対する敵意を募らせる一方だ。アメリカの隣国の住人としては非常に恐い政治的状況である。被爆国日本は、今こそ平和路線でリーダーシップを取るチャンスだと思うのだが・・・。

炭そのために死亡?

さて、この連載エッセーは言葉に関するテーマを取り上げるのが約束だから、政治はちょっと横に置こう。Anthraxの日本語訳「炭疽/炭疽菌」の漢字表記について述べる。現在、テロ関連で俄然脚光を浴びている言葉だ。この言葉は当初、朝日新聞などで「炭そ」と書かれた。私がインターネットで比較的よく眺めるのは朝日新聞と夕刊フジだが、朝日には「炭そ」、フジには振り仮名付きで「炭疽(たんそ)」と出ていた。人の目に触れて慣れたこともあるのだろう、今では朝日もルビ付き「炭疽」である。読者には何故朝日新聞が当初「炭そ」と書いていたのかお分かりだろうか。これは偏に「疽」という漢字が1945字の常用漢字表に入っていないからなのである。しかし「炭そ」という表記は大いに問題がある。それは読者が「素」を思い浮かべる可能性があるからだ。また、ある日の記事には「肺炭そのため死亡した1人目」などという下りがあり、私はうっかり「そのため」と読みそうになった。恐らくその辺りの理由から、上意下達でお役所が常用漢字表にない「疽」の新聞使用を例外的に認めたのだろうと思う。

「暗たんたる気持ち」を見て暗澹たる気持ちに

常用漢字だけでは表現し切れない

常用漢字、つまり漢字制限の問題は歴史的に実は根が深い。故福田恆存氏や丸谷才一氏などが漢字制限に猛反対した(している)ことはよく知られている。大体、常用漢字だけに限ると「てにをは」と名詞が分かれず、文章が読みにくくなる。朝日で目についた漢字表現でここ一月ほどメモしておいたものをここに掲げてみたい。「暗たんたる気持ち/子供がおう吐/日頃のけん怠感/心から安どの様子/首相とかい離が生じる/朱首相が直せつで強硬な発言」

難読字にはルビをつければよい

最後の「直せつ」は「直截」だが子供なら「直接だと思うだろう。同じ意味ではない。こういった紙面を見ると、常用漢字のみに限るのは却って逆効果だとしか思えない。然るべき教育を受けた日本人の識字力はこんなに低いレベルではない筈だ。少なくとも読める漢字は数千はある筈で、2000字以内などというのは誠に国民を馬鹿にした話である。それだけではなく(これが福田や丸谷の主たる論点だが)これは個人の言語表現の自由に関わる由々しき問題なのである。難読字なら夕刊フジの様にルビをつければ良いではないか。子供もそうやって目から漢字を覚えていくのだが、常用漢字のみでは漢字力は明らかに低下する。朝日新聞などは「お上に忠実」なのだろうが、私はそれこそ「暗たんたる気持ち/けん怠感」モードに陥ることしばしばだ。

常用漢字の判断基準

さらに、常用漢字表を眺めてみるとその選択の判断規準に首を傾げざるを得ない。先ず常用漢字で書けない県名が沢山ある。それもさほど難しい漢字ではない。埼玉の「埼」、岡山、福岡の「岡」、岐阜「阜」、茨城の「茨」、栃木の「栃」、山梨の「梨」、奈良の「奈」、大阪の「阪」、愛媛の「媛」、熊本の「熊」、鹿児島の「鹿」、全てアウトである。(ただし新聞の使用は許されている)1981年の「改正」までは新潟の「潟」、長崎の「崎」、沖縄の「縄」も駄目だったのである。一体どういう規準で選抜をしているのだろう。田中元首相の選挙区である新潟の「潟」は政治的理由だと当時言われたものだ。興味深いのは、その一方で一体誰が使うのかと思う様な字が常用漢字表に入っていることだ。特に驚いたのは「朕・勅・璽」の三字。皇室関係であることは明らかだ。ことほど左様に選択の規準は極めて政治的であると言わねばなるい。先程の「政治はちょっと横に置こう」はどうやら失敗の様である。

ちえ蔵ノート

2010年に常用漢字は変更されて2,136字となり、以下の文字が追加されました。

埼玉の「埼」、岡山、福岡の「岡」、岐阜「阜」、茨城の「茨」、栃木の「栃」、山梨の「梨」、奈良の「奈」、大阪の「阪」、愛媛の「媛」、熊本の「熊」、鹿児島の「鹿」

「は気がない」「腐らん」

1,945字の常用漢字について疑問を呈している識者は、故福田恆存氏と丸谷才一氏だけではない。国語学者の大御所、金田一春彦氏もその一人だ。その著書「新日本語論」で挙げられている例をここで紹介しよう。その2例は「歯がゆいほどは気がない」と「腐らん死体が発見された」である。最初の例では「覇気」の「覇」が表外漢字で使えないのだが、これでは成程「歯がゆいほどは」まで一気に読んでしまいそうだ。次の例では「腐爛」の「爛」がやはり表外漢字でアウト。しかし平仮名では「くさらん」と反対の意味に取る人もいるかも知れない、と著者はユーモラスに語っている。以下、金田一の主張に頼りながら常用漢字表を診断してみよう。

表外漢字の平仮名書きを避ける方法!?

書きかえ

表外漢字の平仮名書きを避けるには、方法が2つある、と金田一は言う。一つは他の漢字を使った「書きかえ」。例えば、最近では「腐爛」を「腐乱」と書く様になったがこの「乱」は代用字である。しかしこれではこの単語の意味が微妙に変わってしまう。訓読みすれば明らかな様に「くさってただれる」と「くさってみだれる」はどう考えても同じではないからだ。それでも両者の意味は比較的近いが、同じ「爛」の入ったほかの熟語、例えば「爛熟」ではどうだろう。まさか「乱熟」とは書けまい。この様に代用字方法はどの熟語にも可能なのではなく、結局「書きかえ」はその場凌ぎの弥縫策でしかない。

言いかえ

「書きかえ」と並ぶもう一つの方法が「言いかえ」だ。表外漢字の扱いに困った日本新聞協会は「言いかえ集」「新聞用語集」というものまで出版した。例えば上記の「覇気」の代りに、「闘志」「勇気」「勝ち気」などがその中で勧められている。「悪辣」では「辣」が表外漢字なので「悪質・あくどい・ひどい」など。しかし、ちょっと待って欲しい。我々国民が知らないでいる内にこうした語彙の制限が一方的になされていいのだろうか。「このチームには覇気がない」など、普通の日本人話者なら言うと思うが、新聞にそれが書けない(実は国家権力をもって書かせない)というのは変な話ではないだろうか。常用漢字の制限は、その実、語彙の制限となっているのである。こうした政策は、日本人とりわけ若年層の語彙の貧困化に繋がるだろう。必要ならばルビを振って「覇(は)気」「悪辣(らつ)」と書けばいいだけの話ではないか。上にも書いたが、私はルビの積極的使用に大賛成であるので、金田一の主張に大いに気をよくした。金田一はまた「戦前、新聞と言わず、一般図書と言わず、一般の人の目にはいる漢字には、原則としてふりがながついていた」とも指摘する。ルビを「醜く小さきもの」と憎んだのは作家の山本有三だが、こうした人たちが戦後の国語審議会で力を振るって「ふりがな廃止運動」を起こしたのは、日本人と日本語にとって不幸なことであったと私は思う。敗戦直後の日本人の自信喪失が国語合理化、漢字敵視、ルビ廃止論へと安易に流れたのだろう。ワープロの日常化で、漢字も読めればいいという時代が到来するなど、当時は思いもよらなかったこともある。

漢字制限は立ち止まって考えた方がよい

もう一点、戦後の漢字制限がもたらした不要な混乱の例を挙げておこう。このシリーズ第12回の「50音図をよく見ると」でも御紹介した信太一郎氏のホームページからの情報である。「神・祈」などの「へん」を「しめすへん」と呼ぶのは、戦後の文字改革でカタカナの「ネ」に近い形に改められる前の「へん」は「示(す)」だったからだ。しかし、当用漢字とされなかった字は現在も「祠(ほこら)」や「祭祀」の「祀」のように「示」の形のままで残されてしまった。他の例もある。「比喩」の「喩」は、「輸出」の「輸」とつくりの最後の2画が同じではない。喩では平仮名「く」の様に並んで折れているが、輸では真直ぐの「りっとう」だ。これも漢字制限の前は、ともに折れていた。それが、戦後「輸」は(愉快の「愉」や教諭「諭」とともに)当用漢字とされて新しい字形に改められ、一方それから外された「喩」はそのままという不統一が生じたのである。

常用漢字に日本文化を代表する歌舞伎の「伎」・浄瑠璃では「瑠璃」・長唄の「唄」・箏曲の「箏」がないのも悲しい。一体誰の名においての漢字制限なのか、我々は一度立ち止まって考えてみた方がいいと思う。

ちえ蔵ノート

2010年の常用漢字変更で以下の文字も追加されました。
歌舞伎の「伎」、浄瑠璃では「瑠璃」、長唄の「唄」

箏曲の「箏」の追加はありません。

(2002年1月)

この記事が書かれたのは2002年、公開したのは2005年。内容は当時の世相を反映したものとなっています。

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