第6回 アカプルコからの手紙:甘美で危険な語源巡り

今回は、教室で大和言葉の語源を辿る学習効果並びに楽しさと、その一方に潜む「素人語源説」の怖さについて考えてみる。

旧サイト:金谷武洋の『日本語に主語はいらない』第6回「アカプルコからの手紙」(1997年4月執筆、2005年9月3日公開)から移動

語源や字源を辿ると日本語学習は楽しくなる

漢字の字源の効用

漢字を教える際には基本的な部首と並んで「東という漢字は木の向こうに日が昇っています」などと「字源」説明をすると学習効果がある。「教育漢字がおよそ1000。常用漢字も同じくらいある」と聞くだけで非漢字圏の学生は学習意欲をそがれてしまうが、「でもね、千も二千も全く違う漢字をいちいち覚えるのではなく、基本的な部首や漢字が他の漢字の部分として何度も何度も再利用されているんだ。初級のクラスで習う簡単な部分を組み合わせた漢字(いわゆる形声文字)が大部分なんだよ」と力づけることが大切で、部首、基本漢字、それらの組み合わせ方の指導に力を注ぐ訳だ。

象形文字の字源説明はもちろん楽しいが、こちらはそれほど数が多くない。それよりも漢字のパターン指導(例えば草冠りの字をまとめて導入するとか、「イ」という音符である「韋」を含んだ「偉・違・緯」を一緒に教えるとか)の方が効果が上がる。

大和言葉の語源の効用

さて、「字源」説明と同様のことが語彙面でも言える。新出単語も、特に大和言葉には「語源」解説を加えると、他の基本単語との関連性が見えてきて学生の語彙習得に相乗効果が上げられる。またそれと同時に、基礎語彙を入口にして言語文化論的な分野にも入っていける利点があるので、文法指導の合間に、時間の許す限り語源指導を心がけている。

今回はそんな例を幾つか取り上げてみたい。

一日(ついたち)は月立ち

例えば「二月一日」という日付の「ついたち」である。学生は、どうしてこれを「ひとひ」とも「いちにち」とも(この場合には)読まないのか、と聞いてくる。それに続いて「ふつか」「みっか」「よっか」などと「和数字+つか」が来るのなら、何故「ひつか」ではないのか、と尋ねてくる賢い学生もいる。「語源」の知識はこんな時に役に立つ。

昔は月の満ち欠けをもとにした大陰暦だったので、月の始めという大切な日を「月立ち」と言った。「つきたち」が音韻変化して「ついたち」となったのだ、と説明すると、学生の頭の中にあった月ほども大きい「?」は一瞬にして「!」と変わるのである。

また、ここの音韻変化「き→い」は「書きて(ゐる)」が「書いて(いる)」へと変わった「い音便」の説明にも使えるので便利だ。

あす・あした・あさって・あさの「 as- 」は 「夜明け」

他の例では「あす・あした・あさって・あさ」の4語がある。これをばらばらに教えるよりは、「これらには全部as-という部分があるが、これは夜明けの意味だ」と言ってやる。「朝」と書いて詩歌などで時々「あした」と読ませる様に、「夜が明けて朝になる=明日になる」だったのである。

ケベック州の学生は(英語は勿論だが)よくドイツ語やスペイン語を高校からやっているので、ドイツ語ではモルゲン、スペイン語ではマニャーナが「朝=明日」の両方の意味を持っていることも指摘すると「そうか!」と大いに納得する。

住む・済む・澄む・清むはもともと一つ

もう一つの例として「すむ」という動詞を挙げてみようか。「三年オタワに住んだ」「試験はもう済んだ」「大雨の後の川の水がやっと澄んだ(清んだ)」と漢字が三(四)通りあり、さらに否定形にすると感謝と謝罪の基本表現「(どうも)すみません」がある。これら4つの「すむ」も「元々は一つの大和言葉」と教える。

割とよく知られた事実なので「知ってるよ」と思われる読者も多かろうが、例えば岩波の古語辞典を引くと「すみ」(この辞典では動詞の見出しが連用形、つまり名詞形となっている)は「浮遊物が全体として沈んで静止し、期待や液体が透明になる意。濁りの反対」とあり、さらに親切なことに「澄む・清む・済む・住むは同根」とまで書いてある。上の文で言えば「大雨の後の川の水がやっと澄んだ(清んだ)」の「すむ」が原意に一番近く、これから「動き(移動から)静止へ」の意味で「住む」が、「行動から終止」の意味で「済む」が派生した訳だ。

どうして日本人は「有難う」の意味でも「申し訳ない」の意味でも「すみません」と言うか、と学生がよく尋ねるが、「すまない」は「すむ」の否定形だから、原意は「私の気持ちは(濁った水のようで)清くない」ということである。もしその心理的状況が相手の親切な行為によるものなら感謝表現となり、自分の行為に関してならば謝罪表現となるという訳である。

言語学的根拠のない語源説は、楽しいからこそ危険

えっ!? アメリカ・インディアンの言葉が日本語化?? あるとしても逆方向

この様に大和言葉の語源を遡ることで日本人の世界観の一端をも紹介することになり、学生は大いに喜ぶ。しかしその一方で「言語学的根拠のないアマチュア語源説」の方は非常に危険だ。俗に言う「民間語源説」である。

ある日、学生が「ウソくさいけど面白い本を読んだ」と言ってきた。本のタイトルは「America, Land of the Rising Sun」。この本を紹介している日加タイムスの記事(1994年8月12日付け)を読んでいたのでその本のことは知っていた。筆者は訪日したことのある元IBMの技術者で(京セラの役員でも)あったドン・スサミナ。この本は「アメリカの50州のうち24州がアメリカ・インディアン語の名前だが、そのほとんど全てが日本語に置き換えられる」と主張し、その根拠を「もともとアメリカインディアンが使っていた言語が、彼等が太平洋を越えてアジアに向かったとき日本にも居住したため、日本語として残る事になった」からと言う。えっ!逆方向じゃなかったの、と驚くあなたの方が正常だろう。

いやはや学界の常識に真っ向から挑戦する大変な仮説だが、以下にその「語源的証拠」とやらを眺めてみようではないか。

トンデモ学説も、面白ければそれが正しいとされてしまう危険

ミシガンは『道雁(ミチガン)』から。ミズーリは「ミシシッピー川に注ぐから『水入る』」。アラスカは「アシカの場所なので『在りアシカ』である」という。始めは「あはは」と笑って読んでいたが、私はだんだん腹が立って来た。こんな荒唐無稽なインチキ極まる本が我々の(日本語に関しては批判精神が充分育っていない)学生の目に触れるとは。

悲しき「アマチュア語源説」の引用はさらに続く。「ミシシッピー川の西にあるカンザスは『関西(カンサイ)』から来ている」「ミシシッピー川の東にはケンタッキーがあり、これは『関東京(カントウケイ)』から来ている」さらに「アラバマは『在り万民』から」。

いやはや読んでいて脂汗が出て来るが、被害はアメリカだけでなくカナダにも及んでいる。

いわく「カナダのマニトバ州は精霊(インディアン語で「マニ」)が通る場所という意味で『マニ通場』である」。またいわく「カナダによくあるミチカモノという地名も『道鴨野(ミチカモノ)』つまり『鴨の通る道』を意味する」。

荒唐無稽な語呂合わせが、堂々と学会で発表されてしまう怖さ

読者にも明らかと思うが、これらは単に(レベルの低い)語呂合わせである。

語呂合わせは語源とは関係がない。『辞書(Dictionary)』を『字引く書なり』と覚えるのが語呂合わせ。受験などには役立つが、Dictionaryは『字引く書なり』が語源、と主張する人がいたら少々オツムを疑われるだろう。

しかしスサミナ「説」を紹介している別な本によれば、彼の本は「今アメリカで話題となっている」そうだし「アメリカ文化学会でも発表された」というから我々日本語教師にはちょっと放っておけない事態なのである。(吉田信啓「超古代日本語が地球共通語だった!」徳間書店・1991。帰国した友人が置いていったので読んだが、これまた題名に負けず荒唐無稽な本である)

「America, Land of the Rising Sun」を論破する

語順が不自然

あきれかえって翌週に教室で「この本はインチキ」と言った。何故それが分かるか。第一に語源として挙げられている日本語が日本語になっていないからである。

日本語とは語彙だけではない。語順も日本語なのである。

「鴨の道」なら分かる。あるいは「鴨道」なら。しかし「みち・かも・の」という語順は日本語のものではない。同じ理由で「道雁(みちがん)」も大嘘。第一「湯桶(ゆとう)読み」なんて不自然じゃないか。「雁道(かりみち)」ならまだしも。

歴史的整合性の不在

次に語彙要素の歴史的整合性も大きなポイントである。薬の名前じゃあるまいし「アリバンミン」とは恐れ入る。「あり」は確かに「有明・有田・有馬」など日本の地名に多い。しかしこれらの「あり」の後に来るのは全て「明け・田・馬」など古い語彙である(厳密には「馬」は音読み「マ」からの派生。「梅」の「メイ」が「うめ」になったのと同じ)。

ところが「万民」などという語は明らかに近代のものであって「あり」との繋がりに歴史的必然性がない。「在りアシカ」も笑えるが落第。

歴史的常識も語源のうそ発見に効果がある。「関西・関東」はその好例か。これは「関所(古くは近江逢坂の関、近世には箱根の関)より西・東」の意味であることは日本人なら常識だろう。ミシシッピー川に関所があったとは驚いた。

語源を巡る旅は楽しく危険

タイポロジーでの出アフリカ説

さて、日本語教室をちょっと離れるが、語源研究と言語系統論(タイポロジー)で面白い研究がある。スタンフォード大学の言語学者ルーレンの率いる研究チームが打ち出した「地球上の全ての言語は、もともと一つの祖語に発しており、それはアフリカで話されていた」という雄大な仮説である。この「出アフリカ説」は言語学のみならず遺伝学・考古学の発見も踏まえた総合的・学際的アプローチを特色としているが、言語学的な証拠の一つは、幾つかの基本語彙が地理的に遥かに離れた多くの言語で「偶然と言うには似すぎている」ことである。

「aw・wa =水」仮説

もっとも有名な例が「水」を表わす単語で、仮説としての原形は/aq’wa/(派生形は/aka,wakka,waq’wa/など)である。インド・ヨーロッパ語は勿論(例えばラテン語では「Aquarium, Aqualung」の/aqua/,墓地で仏に供える水は「閼伽(あか)水」というが、この閼伽はサンスクリット語でやはり「水」)のこと、全く別の語族とされている北米インディアン諸語、アフリカ土着語、ウラル諸語など実に多くの言語に例があるという。言うまでもなく、その中には「水」そのものから少し意味が変わっているものもある。(ロシア特産の蒸留酒ウォッカもその例。原意は「水」)日本語の例では「船底にたまる水」の意味の「淦(あか)」が挙げられている(水の関連語でいいのなら「湧く・沸く」や「(水)垢」なども挙げていいかも知れないが)。日本の近くではアイヌ語の例も挙がっており、こちらは/wakka/がずばり「水」である。そう言えば故郷北海道の実家近くにあった豪快な温泉滝「カムイワッカ」は「神の水」の意味と習ったっけ。

素人語源説の「禁断の実」はかくも甘美

さて、こんなことを考えていた矢先である。社会人(で教師の私などよりずっとリッチな)学生から「先生、今アカプルコに来ています」という絵葉書が届いた。美しいビーチの写真よりもこの北米インディアン語の地名の方が気になった。

語頭の「アカ」が問題の「水」ではないか。海辺なのだから「水」があっても不思議ではない。そこで、言葉遊びとして地名の謎解きを、スサミナ氏よろしくやってみた。ただし、あくまでお遊びであり、学会で発表するなどという蛮行には及ばない。それでも出来るだけ語要素の並ぶ順番や歴史的整合性には気をつけてみよう。先ず「船着き場」という語順にならって「あか(=水)・ふり・か(=処)」と読んでみる。「船着き場」が「船が着く場所」であるなら、この「あかふりか」は「あか(=水)」が「ふる」「ところ」であってよかろう。「ふりか」は聞き慣れない言葉だが「連用形+か」には「ありか・すみか」など例が多いから問題はない筈。では動詞「ふる」は何か。古語辞典を引くと自動詞で「古る、震る、経る」などと見える。そうじゃ、アカプルコは「水が古くなる所」あるいは「水(面)が震える所」、それとも水から水草へと意味が変わって「水草が育つ所」かな、と素人語源説の「禁断の実」を味わって一人悦に入っていたのである。

しかし、この辺でやめるべきであった。急に気になって旅行案内の本でアカプルコの記事を読んでみたら、地名の意味が出ていたのである。驚くなかれ「葦の生える所」であった。これは上の「水草が育つ所」とそっくりではないか。スサミナ氏の感動もこの類のものであろう。しかし、こんな断片的な例では、所詮語呂合わせのレベルを出るものではない。学生からの絵葉書に誘発されたこの「大発見(珍発見か)」、雄大な仮説へと発展させるだけの時間も知識も能力もない自分を恨むばかりである。

(1997年4月)

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